中古ソフト対策…なのか

既に今は状況が違うだろうけど、ドラゴンクエスト9は中古市場への出回りが遅かったと聞く。それは1年間かけたクエスト配信が理由だとか、すれちがい通信の人気が理由だとかいう意見があるようだ。中古問題に頭を痛めているゲームメーカーとしては是非とも真似をしていきたい所だろう。だが実際は、発売後1年間のダウンロードサービスもすれちがい通信ドラクエ発売以前から普通に存在するものなわけであり、本当に決め手となったのは上記の理由に加えて「まだ皆が遊んでるから手放しづらい」という点なのではないだろうか。前提としてソフトが大量に売れていることが要求されるので、他のソフトが参考にできるかというと少し難しいだろう。
そんな時にDS用ソフトであるイナズマイレブン2を見て「これだ!」と思った。なんと、カートリッジのラベルに名前を書くための空白が印刷されているのだ。ファミコンソフトの時代には裏面に名前欄が用意されているソフトも存在したが、それとは状況が違う。小さなDSのカートリッジの前面にタイトルロゴと同じ大きさで誰とも知れぬ子供のフルネームが記入されていたならどうなるかと考えれば、これは流石に買取拒否であろう。これこそ低コストで誰にでも真似できる中古対策なのではなかろうか。まあ、問題は名前欄があるからといってDSソフトに名前を書く子供がいるかどうかなんだが……と思ってたら、電車で遭遇したDSのソフトを抜き差しする子供の手に握られたイナズマイレブン2のカートリッジには、おそらく彼のものであろうフルネームが記入されていた。いける……のか?
これ、ラブプラスに導入したら良かったんじゃないかなあ。スクリーンの中の彼女を裏切らぬ誓いとしてカートリッジのラベルに本名を記入。なんか、若気の至りで恋人の名前のタトゥーを入れちゃう感じですが。

芸能人が書いた帯をまとめたサイトが見てえ

コンビニのカウンターの前にイキガミの最新刊が平積みしてあったんだが、帯に書かれた文字が「おちまさと氏 絶賛!」だったので、「帯のコメントを依頼する相手って著者に選択権はないのかなー」と思った。もちろん、イキガミの作者が「是非おちまさと氏にコメントをお願いしたい」と言った可能性もあるけどさ。まあ、逆でもいいや。おち氏が「是非ともイキガミのPRに一役買いたい」と申し出たとかさ。ありえんことではないからな。中村獅童が「是非とも皆さんに臨死!! 江古田ちゃんを読んで欲しいんです」とアフタヌーン編集部に電話してきたとかさ。もしくは講談社側が「フライデーに写真を載せないかわりに江古田ちゃんを宣伝していただきたい」っつう取引を提案したとかさ。そこら辺の内部事情に対する興味はゼロではないが、本気で知りたいかと問われるならばそうでもないと答えるだろうな。もっと平たく言うと、どうでもいい。
どうでもいいんだけどさー。こういう、芸能関係者がコミックの帯によせたコメントを見ることができるサイトが欲しいよね。「コイツ、この漫画絶対読んでないだろ」とか「この人、○○と○○と○○の帯を書いてるけど、読書傾向が全く読めないなー」とか「こんなピュアなコメントを寄せた××さんが数年後にあんな犯罪を犯すなんて……」とか。意外な人が意外な漫画の帯を書いているのに驚くのも楽しかろうし、読まずに書いたであろう無難なコメントを眺めるのも楽しいだろう。ただ、これは書店員でもない限り継続的に続けるのは難しそうかな。実際にやってみれば人気サイト間違いなし……だと思うけど、まあ、保障はできない。とりあえず俺は見るので、最低でも1日1HITは約束されている。誰かやってくれないだろうか。

おまんじゅうはありますか?

買い物帰りの俺の横を走り抜けていった子供は、さきほど通り過ぎたまんじゅう屋に駆け込んでいったようだ。『ようだ』というのは後ろを振り向いて確認するほど子供の行き先に興味がなかった俺は、彼の足音が我が背後で減速しつつ何処かへ消えたことからそう判断したという事だ。しかし、まんじゅう屋に入った子供が元気よく「おまんじゅうはありますか?」と叫んだ瞬間、俺は思わず振り返った。いや、あるだろう。ないわけがない。むしろ、そのためだけに存在している建物だぞ、おまんじゅう屋さんは。
まあ、会話を円滑にするために分かりきったことを聞くのはおかしなことではないからな。例えば「くださいな」と言いながらお店に入った時、店主が「お断りだ」と答える事はないだろう。「はいはい、何にいたしましょう」とでも返事をして、それに対して客が「じゃあ、○○をください」とでも答える。これで取引はスムーズに進むというわけだ。
しかし、饅頭しか置いてない店で「おまんじゅうはありますか?」とは、なかなかエキセントリックな質問ではあるよな。いや、待てよ?しかも、あの手の店は店内に入った途端にショーケースに入った饅頭が並んでいる様子が視界に飛び込んでくるのではないか。すると子供は饅頭を目の前にしながら「おまんじゅうはありますか?」と問うた事になる。どうしたんだ、子供。目深に被りすぎたキャップのつばが視界を覆いでもしたのか。
……いや、饅頭が目の前にある事が一目瞭然だった以上、子供が聞きたかったのは「(僕に売ってもらえる)おまんじゅうはありますか?」ということだったのかもしれんな。考えて見れば、大人になってからの自分の事を考えると眼前の陳列棚には明らかに色々な種類の饅頭が並んでいるのに「おまんじゅうはありますか?」と質問してみたら「お前に売るような饅頭はないよ」という冷たい返事が返ってくるようなケースが多々あったような気がする。饅頭は存在するからといって、饅頭を買う権利が存在するとは限らんのだ。子供ながらにして少し大人びた印象のあった彼は、この世の悲しさを一足先に知っていたのかもしれない。
俺は子供が饅頭を買うことができたのかどうかが気になったのと、久しぶりに甘いものが食べたくなった事から、もと来た道を引き返してまんじゅう屋に立ち寄ろうかと思ったが、少し悩んだあとまっすぐに帰路につく事にした。なんとなく、俺には饅頭を売ってもらえないんじゃないかという気がしてきたからだ。

孤独なアルファ

ステッパーズストップ(http://www.geocities.jp/steppersstop/)久しぶりの新作フリーゲーム『孤独なアルファ』をプレイした。フリーゲームでしか発表できないような外角ギリギリの球でありながらもストライクゾーンは決して外さないのがPorn氏のゲームの面白さだと思うのだが、今回も期待を裏切らない作品だった。……などと言いながら最初は選択肢総当たりゲーなのかなーと思って早々に見切りをつけようとしてしまったことを先に告白しなくてはならない。だが実際はトライ&エラーこそ要求されるものの、与えられた情報を吟味することによって正解への道が浮かび上がって来るシンプルなアドベンチャーゲーム(というカテゴライズも乱暴な気がするのだが)となっている。ただ、このゲームの特殊な点は、限られた『理力』をを無駄に消費させるための数々のダミーが存在するのは当然として、クリアに必要な情報を得るためにも理力の消費を要求される所にある(本来なら説明書に載せるべき情報さえも!)。また、物語の全容を深く知ろうとすれば更に理力を消費する羽目になる仕様であり、それはクリアするのに充分な理力が確保できなくなる事を意味するのだ。不親切どころではない。システム上の欠陥が招く理不尽な死だ。だが、それは本当に欠陥なのか?その死はワンクリックで抜け出せる死だし、そもそもウィンドウを閉じない限りゲームは終わらない。プレイヤーは何度も理不尽に打ちのめされながらも、いつか物語の終局に辿り着くだろう。ボリュームの少なさを逆手に取ったバランス調整は商業作品では真似できないテクニックではないだろうか。
この、しっかりした人骨模型に荒っぽい肉付けを行った感じはフリーゲームならではだと思う。荒っぽい肉付けどころか本来なら人体には付いていないパーツまで付属しているようにすら見える。そんな中で、頭蓋骨の窪みに見える眼球だけはハッキリとした意思を持ってこちらを見ているような印象。そこに、この作品の説得力があるのではないかと思った。

水中毒、それは苦しい

「好きな飲み物は水」というと、そこはかとなく哀れな雰囲気が漂ってしまうものだが、実際の話、俺は水が好きだ。おそらくヘビースモーカーが煙草を絶やさないような感覚で常に水を飲み続ける。外出時においては携帯しているペットボトルが空になる度に自動販売機に立ち寄らないと残機が1機減ってしまうというシステムが採用されているので、目的地へ辿り着くのも一苦労だ。
だが、個人的にはこれがおかしなことだとは思っていなくて「人よりちょっぴり水が好き」ぐらいの感覚でいたのだが、先日、4時間の間に水を4リットル飲んだことをtwitterに書き込んだところ、皆から水の飲みすぎで脳障害になった例や命を落とした例などが記載されたURLが次々と送られてきた。その時の俺の口から飛び出したのは「えっ?お水って飲みすぎると死ぬの!?」という、もう既に脳に何らかのダメージを受けているとしか思えないボンヤリ発言だった。聞く所によると、カリフォルニアで開催されたという水ごくごくコンテストで7.6リットルの水を飲んだ女性が死亡したという事例もあるという。その他にも「コップ一杯の水は巨象をも絶命させる」「ナポレオンやヒトラーといった時の権力者の死の陰には常に水の存在があった」などの情報を聞き、俺は緩めかけていた3本目の2リットル入りペットボトルの栓を締めなおしながらガタガタと震えた。理系ジョークにDHMOというのがあるが、あれはあながち嘘じゃなかったようだ。
思えば神は何度も俺に警告をしていたのだ。かつてのエントリ『オタ夢十夜 3』(http://d.hatena.ne.jp/lu-and-cy/20080712/otayume3)で書いているように、水を大量に飲まされるゲームに苦しむ夢を見たり、『お水ごくごくマン』(http://d.hatena.ne.jp/lu-and-cy/20090813/waterdrinkman)というエントリにあるとおり、見知らぬ子供に「お水ごくごくマン」と呼びかけられたりといった具合に。
このままでは死んでしまう。俺が死んでしまう。例え死には至らないとしても、慢性的に感じている体のだるさの原因は水の飲みすぎにあるかもしれないし、適度な水分補給は必要であるにしても外出先でペットボトルの水を買い続けるのはあまり経済的ではない。これは改めていくべきであろう。……ということで力石気取りで家中の水道の蛇口を針金で縛ってみたりしたのだが……無理だろ、これ。水が飲みたすぎて、白木のお嬢さんが白湯を持って部屋に入ってくる幻覚が見え始めそうな勢い。気がつくと針金で縛られた水道の蛇口をキッと睨みつけながらペットボトルでごくごくと水を飲んでいる自分に気付いたりする始末。うわー。うわー。もうだめだー。水おいしー。

極悪の華 北斗の拳ジャギ外伝(下)【ネタバレあり】

上巻の時点で予想したとおり面白かった。しかし、上巻が『ジャギの小規模な失敗』といった感じで比較的気楽に読めたのに対し、下巻はページをめくる毎に増していく憂鬱との戦いだ。原作との齟齬は少々あるものの、ジャギを主役としたスピンアウト作品という無理難題をきっちり描ききった快作だと思う。
ただ、上巻のレビューの時も書いたことだが、ジャギに同情の余地や言い分を与えてしまうのが果たして正解なのかなあという疑問は付きまとってしまうな。もちろんこれは正史から外れたスピンアウト作品であり、また北斗自体連載から25年以上も経っているということで、今更そこら辺に異を唱える必要はないとも言えるのだが、これから俺が北斗本編を読むときには少なからずジャギに同情的な気持ちを持ってしまうかもしれないなあという危惧があるわけで、そこに些か居心地の悪さを感じてしまうのだ。
もし北斗の悪党の言い分に耳を傾ければ、それは我々にも充分理解できる部分があるに違いない。認められぬ自己顕示欲に苦しむアミバ、強い自尊心を持ちながら他人に頭を下げて生きてきたカーネル、デビルリバースや狗法眼ガルフあたりも含め、コミック一冊分ぐらいにはなりそうな悲劇を背負ってそうな面子を、コメディ一歩手前の狂気にまで誇張することで、憎むべき敵という以上の意味を与えぬようにする。そんな彼らの言い分が一斉に聞こえてきたら、北斗という物語は別物になってしまうだろう。
いや、これは北斗の物語を尊重すると同時に「既存の物語を別物にする」という狙いもあったに違いない。それだけの覚悟を持って描かれた作品であろう。そして、作者はジャギに言い分を与えてしまうことに対して慎重だったと思う。ラストシーンにはわずかな救いがあるものの、彼は死の間際に愛する人の幻を見ながらも、最後までケンシロウに恨み言を言いながら絶命するし、本作中には描かれてないもの、愛する人を奪われる辛さを誰よりも知りながら、彼はレイの妹アイリをさらって売り飛ばすほどに人の心を失っているのだ。悲しみを背負うことで強くなった他の三兄弟と違い、悲しみを背負うことから逃げた男に降りかかる当然の報い。しかし、それは自業自得だと吐きすてることができるようなものではない。大切な物が何であるかは、だいたい全てが終わったあとに気付くのだ。

ヌシとtwitter

スレ主、トピ主、うp主とインターネットには色んなヌシが存在する。先日、pixivにピク主というものが存在すると聞き、「いやいや、ピク主も何も、描かれた絵は個人の物だろう」と思ったら全然そんな意味で使われている単語ではなく、主従関係を題材にした創作イラストの総称だった。はやとちり。
そんなことを思ったのも、昔どこかのブログのコメント欄が(恐らくグーグルで特定の単語を検索すると上位に出てくる等の理由で)元エントリとズレた方向で異常なぐらい肥大化しているのを見たことがあったのだが、困った管理者が「あまりにも関係ない話題は控えてください」と注意したところ、続くコメントで「なに?おまえ、スレ主?」とか言われていて、ちょっと笑ってしまった……ということがあって。確かに超客観的に見ればブログは管理者以外にスレッド作成ができない掲示板という見方もできなくはない。いや、俺はそんな見方をされるのは勘弁だけどさ。
結局の所、インターネットコミュニティはヌシとヌシの下に集まる者たちで構成されてる場合が多い(まあ、トピック自体は内容説明に留まっていて、コメントを書き込む者同士の対等な交流で進行していくタイプの物も少なくないが)。そこで、こういうpostを見て、

twitterの主にオレはなる!と意気込んでみたものの、twitterにおいて何が主なのか見出すことができず、RT主とかふぁぼられ主とか小ぢんまりした物に落ち着いてしまう、そんなインターネッツ

http://twitter.com/whirlpool/status/3965881101

ヌシができないことがtwitterの人気の秘密なのかなーと思った(twitter有名人や常に話題の発信源となる人間はいるかもしれないが、彼らはヌシというのとはまた違う。)。twitterでは元発言者としての責任や負担は軽減されるし、その話題に乗っかる側も「誰かが作ったコミュニティに帰属している」というしがらみめいた気分も少なくなるだろう。責任については実際は軽減されてないのかもしれないが、全てのコメントを一望できない状態なので、精神的な負担は軽くなる。
だからといってtwitterがネットにおけるコミュニケーションツールとして最高だぜーという気持ちでもないんだよね。個人的にはもっと別のヌシを見てみたい気がするんよ。ハットリくんがケンイチの父親に対して行う呼びかけ「パパ上」に似たコミカルさがスレ主というフレーズの一番の価値だと思うので、単にバリエーションの増加だけでも構わない。そういう意味で『ピク主』には牢名主っぽい人がピクピク動く様子が想起されて、軽いときめきを覚えた。勘違いだったけど。