僕は絶対に絶対に嘘なんか言ってNAI

実家のそばに豹を飼ってる家があった。
家を出て100メートルほど直進して角を右に曲がると、木々が空を覆い隠す薄暗い通りがあり、その途中にあるあばら屋の庭には大きな大きな檻があって、中から黒い豹がこちらを睨んでいたのだ。ほのかに立ちのぼる獣臭、きっかけなく発せられる咆哮。小さかった俺はそこを通るのが怖ろしくて仕方なかった。


いや、待ってくれ。大人になった俺には、住宅地で豹を飼う奴なんていないことぐらいわかる。住宅地じゃなくてもやっぱ駄目だってこともギリギリわかる。
誰しも覚えがある事だと思うが、人はしばしば自分の都合のいいように自らの記憶を改竄してしまうことがある。嘘をついているうちにその嘘を信じこんでしまったりな。しかしまあ、これは俺になんの得もない。子供の頃近所に豹がいたという嘘にどんなメリットが?豹マニア相手に自慢するとき?豹マニアだって住宅地に豹がいないことぐらいわかるだろう。なんだ、この記憶。なんの意味が。
しかし豹がいるとかいないとかって話だから良かったんだ。確実に間違ってるのは俺の方だってわかるから。
連続射殺事件の犯人である永山則夫日本文芸家協会理事会に入会を拒否された時、創作物と犯人を切り離して考えられない協会はけしからんとして中上健次筒井康隆柄谷行人の3人が脱会したという話があったが、筒井康隆によると「皆で脱会しようと言いだしたのは自分だったはずなのだが、ある記事を見たら中上健次が『自分の提案に皆が賛同した』と断言していた」という話の食い違いがあったらしい。めんどうくさいよなあ。誰かがテープに残してるわけじゃないから真実をつきとめようとしても泥仕合必至。まあ、これもまだいいか。争う必要はないから。誰が言いだしたかなんてどうでもいいことだ。もっとめんどうくさい、神に誓って嘘を言ってないもの同士の争いってのがあるんだろうなあ。
コナン君は「真実はひとつ」と言っている。それは間違っていない。だが、ひとつの真実を指し示す証拠がない場合、我々は記憶にたよるほかない。真実の映し身同士を争わせるしかないのだ。その戦いに事実は審判として立ち会わない。考えるだけで疲労してしまうよな。


昨日、母親と電話をする機会があったとき、それとなく豹を飼っている家のことを聞いてみた。
「近所にあった、ほら、大きな檻がある家だけどね」
「そういえば土佐犬のブリーダーがいたわね」
「ああ、うん、そうそう。土佐犬土佐犬ね。」
「儲からないのか廃業してすぐに引っ越しちゃったけどねー。にしてもあんたが物心つく前の話だった気がするけど、よくそんなこと覚えてるわね」
俺は答えた。
「ああ。当然だろう。だって僕は記憶力には自信があるからねえ」