演歌の夜道

住宅地の立ち並ぶ細い路地から夕闇が濃くなっていく空を見上げると、知らぬ間に自分が地面にできた亀裂に落ち込んでしまったのではないかというような錯覚を覚える。沈み去る太陽に色彩を奪われた家々の壁面が切り立った崖を思わせたからかもしれないし、世間から取り残されたような自らの孤独感がそんな考えを起こさせたのかもしれない。
降り始めた夜の帳は現実味までも覆い隠している。数メートル先から歩いてきたスーツの男は右手で胸の前にマイクを構えていた。俺は彼から滲み出る狂気に怯えた。のっぺりした顔に貼り付いた目からは何の意思も感じられないし、唇は笑っているのか不満を訴えているのかわからない不思議な形に曲がっている。顔の造作は生真面目な男を思わせたが、構成するパーツがそれぞれ僅かにいびつなのだ。ただ、背すじはピンと伸び、細い腕は歩行者にしては不自然なほどしっかりと胸元に構えられていた。一言で形容するならば墓から掘り起こされた演歌歌手といった雰囲気。
こんな夜道をマイク片手に歩いている男がまともなわけがない。なんとしても避けて通りたいところだが、その道はなんとか二人がすれ違うことができる程度の広さしかなかったし、あいにくにも逃げ込めるような横道もなかった。暗闇の中でもわかるその男の表情は見れば見るほど異様で、たちの悪いトラブルを予想させるには充分の凶相であった。俺の心臓は早鐘のように鳴った。どうすればよいのだろう。そう思う間にも彼との距離は縮まっていく。
街頭が演歌歌手をスポットライトのように照らしたとき、俺は彼の胸元に構えられたのがマイクでなく缶コーヒーであることに気づいた。缶コーヒーの持ち方としてはおかしいが、異常というほどでもないことだ。全く思い込みとは怖いものだ。負のイメージに負のイメージを重ね、彼を狂人に仕立て上げてしまった。俺は自分がこんな見間違いをした理由は何かと考えたり、勝手に気恥ずかしくなって俯いたりしながら彼とすれ違い、そして全てがわかった今、もう一度彼の顔を見たらどんな印象を持つだろうかと思った。しかしすれ違った彼はすでに遠くへ歩みを進めており、まさか追い抜いてまで顔を確認するわけにもいかず、俺は再び前方へ向き直った。
その時だった。はるか後方からおかしな節回しの「馬鹿な奴らを殺したい馬鹿な奴らを殺したい」というオリジナリティ溢れる歌声が聞こえたのは。