マジでやらなくていいゲーム

いまだネット上で見かける「やらなくていいゲーム」というフレーズ、これは吉田戦車の漫画「はまり道」に登場したものだが、現在よくウェブで見かける解釈だと「いちいちコントローラーを握らなくても時間経過で自動的に進行するので、好きなタイミングで進展具合を確認して楽しめば良いゲーム」というニュアンスであることが多いようだ。しかしこの言葉は「ゲームするのは面倒だがゲームの楽しみは享受したい」もしくは「ゲームをしているという実感だけは味わいたい」というニュアンスで語られたものだった気がする。や、まあ、そりゃそうだ。現在使われている意味合いだとギャグにならないし。
しかしこの前者のようなゲームの例だと、結局「見る」のがスゲーめんどくさいって話になると思うのよな。いやいや、見るのぐらいめんどくさがるなよという意見もありましょうが、ようするにゲームの前に座って電源を入れるという行為はもはやゲームに拘束されているのと同義。コントローラーを握ってようと握ってまいともはや関係ないのだよということですな。つまりこれは真の意味でやらなくていいゲームではないと。
じゃあ、どうすればやらなくていいゲームになるのか?見ることすらしなくていいゲームになるのか?ハハハ、それは簡単なことです。リアルサウンドみたいに音だけのゲームにすれば見ることすらしなくて済みます…などという面白くもおかしくもない薄ら一休じみたことを考えてしまったのだが、これは意外とアリじゃないかな。見るには対象物の目の前にいなくてはならないけど、聴く分には音の届く範囲内にいれば良いわけだから拘束感はグッと減るはずだろう。更に、電源を入れるというゲームと契約を結ぶがごときアクションをとらなくて良い方法を考えれば…。そうか日常的に使用して自動的に音を発するものに組み込めばよい。目覚まし時計なんてどうだ?一日一回、朝にゲームの進行状況を報告されるってのは。
…しかし、進行に自分が全く関与しないのは面白いんじゃろか?というかゲームなのか、これ?ラジオドラマとかじゃないのか?おいおい、革新的なことを考えてたつもりがラジオで「君の名は」とか聴いてた時代に逆戻りしてたよ。
じゃあ何かと連動させると良いのか?しかし連動させるものが入力を強いるものであってはならないだろう。万歩計のようなものはどうだ?歩くという日常的な行動がゲームに影響を…いや、ダメだダメだ。常に何かを持ち歩くということほどの面倒があるものか。財布や家の鍵レベルまで日常に溶け込んでるならともかく。じゃあ、体に何か埋め込むというのはどうだ?もう、これしかない気がする。体を弄るなら、いっそ記憶を弄ってはどうだ?ゲームをやったという記憶を植え付ければ、実際にゲームをやっていないとしてもゲームをプレイしたという満足感が得られるのではないか。なんか一瞬これでいいやって気になりかけたけど、当初の目的とは完全にズレてるような気がする。
自室の電気のスイッチだとかドアだとかにセンサーをとりつけて、それがオンになった回数とかかな…現実的なところで(全然現実的じゃないけど)。しかしプレイと進行に関連性がなさすぎると達成感が湧きにくいよなあ。だいたい、どれぐらいプレイヤーとの関わりがあれば、それをゲームと呼んでいいのか。待てよ?俺が思っているよりもゲームの定義って広いのかもしれんではないか。選択肢が一切なくても「ひぐらしのなく頃に」はゲームだというし、ひょっとしたら記憶操作によるゲーム体験もゲームとして認められるかもしれん。いや、ゲームというエンターテイメントの懐の深さを考えるなら間違いなくこの程度はゲームの範疇であろう。
あとはこれでどう利益を発生させるかだな。ショップ販売でもダウンロード販売でもないという時点でゲーム界における革命であることは間違いないし。どんな名案もビジネスベースに乗せようとすると難しくなるものだな。さあて、忙しくなるぞ。