憎悪念法憎しみ縛り

ネットで言われるところのムラ社会の形成においては馴れ合いについてばかり語られることが多い(憎しみについてはムラVS外部の話であることが多い気がする)が、憎悪ほど自分の立ち位置を制限するものはないんじゃないかなあみたいなことを思った。
前も藤井フミヤが「カラオケが嫌いなんでカラオケで歌えないような曲を作った」という発言をした話(http://d.hatena.ne.jp/lu-and-cy/20050930#p2)をしたが、これは本人自身こそカラオケの引力に完全にとらわれているということに気付いてないのだろうなと思うと、無自覚ゆえのヤバさみたいなもんは憎しみの方が上かなあなどとも考えた。
もし3つか4つばかし何かを憎んだ場合、その人の立ち位置はかなり限定されるんじゃないだろうか。それらから引いた線の交わる位置が自動的に居場所となるみたいな。そして同じようなものを憎む人が同様の手順で配置された結果として一箇所に集まることなり、知らんうちに憎悪コミュニティができるというパターン。憎しみで繋がるおもしろブログ。藤子不二雄の漫画でいえば嫌な嫌な嫌なやつ。アンチ連帯感集団一匹狼の会。
いや、憎しみを抱くのは全然かまわんのだが、その効果によって自分の行動が制限されることを意識しないと思わぬ事故を招くかなという話。なぜ自分がここに立ってるのか、周囲にいる人間との関係はどんなものなのかということを全く考えない場合、いつの間にかとんでもないところに流されているかもしれん。