機動刑事ジバン主題歌

♪ジバン ジバン 人は誰でも ジバン ジバン ひとつの太陽

待ってほしい。断定は避けてほしい。太陽でない人だって存在する。安易な誰でも発言は危険であろう。むしろ太陽である人を見たことがない。
いやいやこれは比喩であるわけだ。つぶさに観察すれば人は誰でも太陽的な部分を持っているのかもしれん。

♪だから燃える だから戦う

やっぱり待ってほしい。太陽だから戦うとはどういうことだ。文の前後が繋がっていない。太陽は戦うのか。

♪吹き飛ばす 闇を

なるほど、太陽は闇と戦っているという解釈なのだな。もちろん太陽が相手にしている闇は比喩でない闇であり、ひとつの太陽たる我々が相手にしているのは比喩としての闇だ。
少し戻ってみよう

光が激しく降り注ぐ
生きてる訳を問い掛ける
分かっているさ愛するものを自分を捨てても守るんだ

太陽は問いかけない。太陽と我々はコミュニケーションをとる術をもたない。なによりまず太陽に意思があるかどうかが疑わしい。言うまでもなくこれは自問自答だ。自問自答で「分かっているさ」などというあたりや「自分を捨てても」という極論に達するあたりはアレだが、ジバンぐらいの重責を負った男にはこれぐらいの覚悟が必要なのかもしれん。しかし人は誰でもと言っているからには全ての人がそういう精神を持ち合わせているべきだといっているのか、ジバンは。あれ?そもそもこれはジバンの視点なのか?戦うっていってるしジバン視点だろうなあ。


突然なにを言い出すのかと思われるかもしれんが、最近どうも弱っているらしく「人は誰でも太陽!」って言われると幼子の表情で「太陽なのかあ」と思ってしまうのだ。これは太陽だから実害もあんまりなさそうなんだが、これが「人は誰でも人切り包丁」だったり「人は誰でも釘バット」だとかだとしたら抵抗なく納得してしまうのは非常に危険であるからな。冷静さを保つための思考というわけだ。俺という奴はなんともクレバーな男よ。そう思ってここ一週間ジバンの主題歌だけをエンドレスで聴きつづけながら上記のようなことをずっと考え続けていたんだが、よく考えたらそれこそが冷静さから一番ほど遠い行動だよな。その行動をおかしいと思える判断力すらなくなるほど弱っていたのかもしれん。
で、一週間費やした結果なんだけど、前より素直に「人は誰でも太陽」って言葉をすんなり受け入れられるようになった。あれ?これ単なる洗脳?洗脳とは違う気がするけど…なんか深く考えるの面倒くさいから別にいいや。
俺も太陽。みんなも太陽。太陽は僕の敵だと歌ってた小山田くんも太陽。だということはあれは太陽VS太陽という構図だったんだなあ。やばいなあ、太陽の光に照らされて見えなかった真実がどんどん見えてくる。太陽はすげえなあ。俺も太陽になりたい。ああ、誰でも太陽なわけだから、もう俺は太陽か。なんだ、目標達成じゃないか。だが最終目標を達成したことにより生きる理由を失った。張り合いのない人生だ。理由のない人生がこんなに辛いとは。地獄だ。俺は太陽なのにこの世は闇だ。寒い。寒い。太陽であるにもかかわらず凍えそうだ。そんな孤独な太陽である俺を照らすことができるのは別の太陽しかない。ハッ、そうか。そういうことだったのか。だから誰でもが太陽である必要があったのか。お互いを暖かく照らしあう無数の太陽郡。ようやく気付くことができたけど、ちょっと遅かったようだ。もう冷えきって手足の感覚がなくなってしまった。こんな俺をジバンは許してくれるだろうか。ひとつの太陽だと認めてくれるだろうか。素直になれなくて悪かったな、ジバン。いまならためらうことなく言えそうだ、人は誰でもひとつの太陽なんだってようやく気付くことができたけど、ちょっと遅かったようだ。もう冷えきって手足の感覚がなくなってしまった。こんな俺をジバンは許してくれるだろうか。ひとつの太陽だと認めてくれるだろうか。素直になれなくて悪かったな、ジバン。いまならためらうことなく言えそうだ、人は誰でもひとつの太陽なんだってようやく気付くことができたけど、ちょっと遅かったようだ。もう冷えきって手足の感覚がなくなってしまった。こんな俺をジバンは許してくれるだろうか。ひとつの太陽だと認めてくれるだろうか。素直になれなくて悪かったな、ジバン。いまならためらうことなく言えそうだ、人は誰でもひとつの太陽なんだって。