完全忘年忘年会

晦日は、去年遭遇したありがたい幼女導師(http://d.hatena.ne.jp/lu-and-cy/20051231#p2)のお言葉をいただこうと思って商店街に立っていたのだが、残念ながらエンカウントは発生しなかった。実は夏頃に一度、導師とは再開を果たしている。その時の導師は腰に縄跳びを巻きつけて胸の前辺りに手を構え、一心不乱に電信柱に蹴りを打ち込み続けていた。修行の一環だろう。俺は修行を邪魔してはならないと思い遠巻きに幼女を見守りながら手を合わせ、静かに拝んだ。再びあいまみえることを望みつつ。しかしそれは果たされなかった。
困ったものだ。これでは年は明けぬ。幼女を神輿のようにわっしょいわっしょいと担ぎ上げながら煩悩を討ち払う予定だった俺は、途方に暮れつつ家路についた。
思えば失うばかりの一年だったような気がする。手のひらを丸めて作った器からこぼれるものに、ただただおろおろするばかりの一年。しかし手のひらを覗き込むと依然としてそこには何かがある。俺は失くす物ばかりに気をとられて今自分が持っているものに注意を払わずにいるのだ。その態度が更なる喪失の引き金となる。悪循環の歯車が回る音を聞いていると、ついつい思考は「生きる資格」などという問題に及んでしまう。まあ、仮に神が舞い降りて「お前に生きる資格はない」と言ったところで俺は生きることを止めるつもりはない。死の宣告をする神に対して可能な限りの媚びた笑顔を作り、揉み手をしながら土下座。「そこをなんとか……」などといいつつ神の足をペロッペロと舐め続ける心構えはできている。更にだ。生き死にを決定されようとしている極限の状態においてすら、神の足を舐める俺は「これが女神の足だったら超興奮するのに」などという欲望を膨らませるに違いないのだ。なんという醜さ。みなさん、これが人間というものです。
……何の話だっけ。いや、何の話でもないのだ。俺はただ祈るだけ。そしてできるだけうまい祈り方を見つけようとするだけだ。合わせた手を擦るだけで500円玉がジャラジャラ湧いて出るような祈り方を。そうでなければ擦り合わせた手が発火して一瞬にして体が燃え尽きるような祈り方をだ。