「カッコいいこと言った方が勝つわ」

少年漫画における戦闘能力の強弱の表現は難しい。登場キャラクターが多くなれば、それはより困難になる。戦闘力の数値化や組織内での階級を利用した格付けなどが流行るのも仕方のないことだ。強さを比較するにはものさしが要る。だが、ことあるごとにものさしを出していたのでは話が冗長になる。そんな中で『カッコいいことを言った方が勝つ』というのは現実的でないにもかかわらず、非常に説得力がある。現実の試合には(稀であるにしろ)ラッキーパンチによる勝利というのが存在しうるが、フィクションでそれをやってしまうと「リアリティがない」とのそしりを受けることとなる。リアルとリアリティは違うのだ。
では何故、カッコいいことを言った方が勝つのか。それは読者がカッコいいことを言った方に感情移入するからだ。そして読者はお客様なわけなので、当然のこととして彼等が支持する方が勝利する。わかりやすい味付けが施されやすい少年漫画においては特にこの流れは顕著だ。『説得力』という言葉があるが、まさに戦いにおける台詞は説得。対戦相手を飛び越えて読者に放たれる必死の説得なのだ。しかし、よくよく考えると登場人物が読者を説得することは不可能だ。既に印刷されてしまった戦闘結果を変えることはできないし、様々な読者の声を全てフィードバックした展開などありえない。あくまで、この場合の読者というのは作者の想定する読者、作者の内なる読者なのだ。
だから漫画のキャラクターが自身の勝利を真剣に考えるならば、作者が設定した『作者が考えるカッコいいこと=その作品内での正義』を読み取ることが大切であろう。なんといっても作者も読者も一般常識のの範疇に生きている人間なので、現実世界で尊いとされていることは大抵プラス評価に繋がりがちではあるのだが、それが全ての場合に当てはまるとはいえない。例えばワンピースではキャラクターが努力をアピールするシーンはあまりない。例外的にゾロがトレーニングをするシーンはあるものの、あれは求道者というキャラ付けのためという意味合いが強い。ワンピースは実戦の繰り返しによって強さを増しているキャラクター達が主役格の世界なので、あの中で努力自慢をするのは考えものだろう。そんなもんアピールされたところで主人公側からすれば「俺達は日常からして修行みたいなもんなんだけど」「えっ?結果じゃなくて仮定を自慢するの?」ってなもんだ。逆に重要視されるのが『絆』だ。作品のテーマともいえる大きな存在。もしも、うっかり「友情など戯言よ!」などと口を滑らせることがあれば、これは作品のテーマに唾を吐いたということであり、ワンピース法によれば死刑間違いなし。
大抵の世界において有効とされるのが友情アピールだが、あいにくこれは全然面白くないのが欠点。作者の内なる読者は説得できても、実際の読者を説得することはできず、結果として打ち切りという名の、世界全てを飲み込む闇によって、勝ちも負けもない世界へ作品ごと葬られてしまう。敵は目の前にいる者ばかりではない。もっと大局を見据え、目先の勝利を掴みつつも、世界全体を盛り上げるような名言を吐かねば真の勝利は得られない。
では良い例を挙げてみよう。島本和彦の『炎の転校生』において、空手部部長・高野千明が繰り出す、日に300回の練習が生み出した必殺の回し蹴り、その名も『毎日三百』を、主人公の滝沢昇が「では、俺は今日から400回の練習をしよう」と宣言して繰り出した『今日から四百』によって打ち砕くシーン。これは見事だ。
まず炎の転校生はスポ根漫画を下敷きにしたパロディ作品であるので、努力というものの価値は非常に高い。日に100回分も余計に修練を積むというのだから、この発言は重みがある。しかし、この発言には一目瞭然の穴がある。当然のことながらそれは「理屈としておかしい」ということだ。何故って現時点での練習は0回なのだから。本来なら、こんなでまかせに言いくるめられる人はいない。しかし、滝沢はこの世界の法則を熟知しているのだろう。この欠点そのものを、この物語内で努力と並ぶほど尊いとされる『ギャグ』とすることによってカバーしているのだ。流石は主人公と言うほかない見事な手腕。主人公の行く道が物語の正義になるという少年漫画の約束事に対し、この場合は主人公が物語の正義に合わせて行動したというあたりが素晴らしい。彼の発想力には惜しみない拍手を贈りたい。
皆さんも、漫画を読むときには「その作品における正義とは何か?「登場人物はその正義を意識して行動できているか?」という二点に気を配ってみてはどうだろうか。今までとは違う楽しみ方ができるかもしれない。俺は実際にやってみて全く楽しくなかったんだけど、もしかしたらこういうのが楽しい人もいるかもしれないし、まあ、やってみるといいかもしれない。