田中邦衛と俺

人名を度忘れすることは誰でもあるだろう。友人知人のような記憶の優先度が高い人物ならともかく、芸能人の名前をうっかり失念してしまったところで別に困ることはない。ところで最近、田中邦衛の名前を忘れる。頭の中のスクリーンに例の顔はバッチリ浮かんでいるのだが、画面下部に表示された彼の名を記すテロップがジワッと滲んで読めない。そこに書かれている名前が全く思い出せない。度忘れによくある「喉まで出かかっている」という感覚すらない。どんな字面だったかも、どんな語感だったかも、何文字ぐらいの名前だったかも全くわからない。もちろん別に困らない。別に困らないがこれが一度や二度じゃない。三度や四度でもない。どうしても思い出せずにムズムズした気持ちを抱えながらインターネットで検索して「ああ、田中邦衛だった」と膝を叩くのだが、次に思い出そうとした時には邦衛の名はロンドンの霧よりも濃厚な何かに覆い隠されている。周辺情報は覚えている。「北の国からの黒板五郎役の!」「大正漢方胃腸薬の!」「ウホッホ探検隊の!」「若大将シリーズで青大将役の!」「実写ルパン三世次元大介役の!」頭の中でフワフワ浮かぶそれらの情報群の中心には意地の悪い笑顔で田中邦衛が立っている。胸ポケットからはみ出させたスカーフでネームプレートを意地悪く隠しながらニヤニヤニヤニヤと笑っている。ガムを噛んでいる。わざとらしい音をたてながらガムを噛み続けている。
もちろん、この文章を書き始めた段階でも田中邦衛の名前は遠い記憶の彼方だった。この世にインターネットがあって良かった。いつ田中邦衛の名前を忘れてもすぐに調べることができる。それにしても何故に田中邦衛の名前だけが覚えられないのか。その忘却の頻度は、もはや恐怖を感じるレベルに達している。こうやって長々と文章に書き記してしまえば、暫くの間は忘れないであろうが、いつの日かまた邦衛はその名を滲ませながら俺を見て笑うに違いない。怖い。邦衛が怖い。笑うな。俺を笑うな。笑うなって言ってるだろ。なんなんだおまえは。おまえ……おまえ?おまえって誰だっけ。まただ。まただよ。怖い。嫌だ。怖い。誰だ。誰だ。おまえは誰なんだよ。