宗教と攻略法

日々あらゆる苦難が四方八方から襲い来る現代人だが当然のことながら会社で上司と衝突があった場合と恋人と大喧嘩をしてしまった場合と隣家から毎夜叫び声が聞こえる場合では対処法が全然違う。恋人と大喧嘩をした場合は謝罪の電話が有効であろうが、これがまさか毎夜叫び声が聞こえる家に対して謝罪の電話をかけたりはするまい。なんで俺が。誤るのあっち!
しかし宗教ってこれを一極化できるという意味で大変便利なのかもしれんよね。相手の種類や行動パターンを問わず自分のターンではとにかく「祈る」を選択。とりあえず判定の強いレバー入れ強パンチ振り回してればOKとか戦闘始まったらとにかく同じ呪文唱えれてれば楽勝(こっちの方が比喩として適切)とか。
仮にそれが効果があったとして、個人的には「それ楽しいのか?」と思わんでもないが、向こうからすれば「超便利じゃん」みたいな感じなんだろうか。いや、彼等にとっては選択肢を選ぶこと自体が勝利条件と密接な関係を持っているのだから話が違うか。選択肢選んだりコマンド入力してるだけでプレイヤーのテンションがガンガン上がるゲームって楽しそうではあるな。プレイ料金次第ではやってもかまわんと思うのだが、いかんせんワンコインとはいかぬものばかりのようであるからなあ。

ゲーム性

ゲーマーのブログを見ているとしばしば登場する「ゲーム性」という単語、ゲームをやらない人は意味がわからずに戸惑ったりするかもしれない。この言葉、これはドストエフスキーの著書「賭博者」の主人公であるゲームセイ・イワノヴィッチが語源である。
未読の人のために説明しておくと、賭博者という物語は、架空の街ルーレテンブルグ(ルールブックをもじってつけられた名前)に滞在している将軍一家とその家族、そして家庭教師の青年が一切ゲームをせぬままにゲーム論争に熱中していくというものである。ラストにおける主人公の青年の「0と1だ。0と1で書けるんだよ」という台詞に震えた人も多かろう。
この作品を参考にしているからこそ、人がゲーム性という言葉を使う時とは、だいたいにおいて根拠のない自説を補強したいときや理由なく他人の嗜好するゲームをけなしたりする場合なのである。要するに意味はないので、わからなかった人はその部分を読みとばすと良いだろう。たぶん普通に読み進めることができる。時として全部読み飛ばすことが可能な場合すらあり、大変都合が良い。