北斗無双に期待したいのだが

北斗無双が歴代の北斗ゲーの中でもトップクラスの面白さになるのは間違いなかろうと思っている。というのも北斗ゲーの歴史は駄作の歴史であるので、完成したゲームが北斗+無双という計算式から想像される最低限のモノだったとしても、今までの北斗ゲーを軽く凌駕する出来になるであろうというのは疑う余地がないからだ。バランスに難があるもののコアなファンを獲得したアーケード版の格闘ゲームや、抱腹絶倒の世紀末シアターモードで有名だが本編もそこそこ面白いPS北斗、アクションゲームの基本を押さえつつファンの期待も裏切らないセガマークIII版北斗などといった秀作は存在するものの、基本的に購入者達の哭く声がカサンドラの街もかくやとばかりにこだまするのが北斗ゲーの世界なのである。ちなみに『ウイルスキラー北斗の拳』というアンチウイルスソフトすら、北斗関連商品だから仕方がないと購入した俺だが、ある時、アップデートファイルの配布ミスで購入者全員の『ウイルスキラー北斗の拳』が『ういるすきらぁハローキティ』に更新されてしまうというおもしろ事件が発生した。それを目の当たりにした時すら驚くよりも先に「北斗だからなあ」と納得してしまったぐらい、北斗関連商品に対する期待は低い。
で、本題。先日ニコニコ生放送北斗無双の発表会を視聴したのだが、ちょっと残念なことがあった。画面に映るのははケンシロウとシンの一騎打ちのシーン。突進をかわされると手刀が柱に突き刺さって動けなくなるという、いかにも低次ラウンドのボスらしいアルゴリズムを与えられたシンに涙しつつゲーム画面を眺めていたのだが、突如画面外から出てきた雑魚が痛快ガンガン行進曲のカツオよろしくケンシロウを羽交い絞めにし、そこでシンが「何本目に死ぬかなー?」と言いつつ指先でケンシロウの胸を突き始めたのには参った。それを見て俺は「やっぱりそういう事をやっちゃうのかー」と少々テンションが下がるのを感じた。原作にあるネタを数多く盛り込みさえすればファンサービスになるというような方向で製作されているのではないかと不安になったのだ。確かにこのシーンは原作に存在するが、あくまでも敗北したケンシロウを嬲るシーンとしてである。これを戦闘中にやってしまってはただの悪ふざけだ。もし、この技が二度、三度と連続で繰り出されることがあるなら、そこにはシリアスさの欠片すらなくなってしまうだろう。これは前述の北斗格ゲーの時にも感じたことだ。どこからともなく出現した椅子に相手を座らせた上で打ち据えるジャギの投げ技やコンボの度にサイで自分の足を貫くラオウなどは流石にギャグの世界だろう。
しかし、そういうのを盛り込んでしまう気持ちもわかる。そもそも北斗の拳は緻密な物語ではないし、シリアスとジョークの境目にあるような作品だ。更にそれが25年以上の歳月をかけてあらゆる形で消費され続けているのだ。もはやネタとして楽しむのが本流というのも充分に理解できる。だが、俺たちが半笑いだった時も北斗という物語自体は真顔を貫いていた。だからこそ面白かったのではないか。
いつぞやのコンビニ売りの北斗単行本において、各話の途中の穴埋めとして挿入された人物紹介が一昔前のテキストサイト的悪ふざけで登場人物を茶化すような内容だった為ガッカリしたことがある。たしかにコンビニ売りの単行本で初めて北斗を見るという人は少ないかもしれん。俺も愛蔵版にカラー版にフィギュア付き版と、何度目の北斗になるかわからん。だからといって本編の途中でそれをやっちゃだめだろうと。あくまでギャグの要素を孕んだシリアスである所を、それに関わる人が勝手にギャグとしてパッケージングしてしまったら駄目だろうと。北斗無双にも微かにその雰囲気を感じてしまったので、それが度を越したものになってしまってはいないだろうかというのが、俺の心配の種なのである。
あとは北斗というと後期における三兄弟の戦いや愛という言葉がクローズアップされがちなのだが、個人的に好きなのは、最愛のユリアを失って当てもなく彷徨うケンシロウの姿だ。後期北斗のように愛、愛と連呼することなく、それを行動で示すケンシロウこそ俺のヒーロー。後期は物語の中心に愛というテーマが据えられるのでケンシロウが口に出して「愛のために戦おう」などと言ってしまうが、これは少々野暮だと思っている。わかりやすいといえばわかりやすいし、物語としても華があるのでゲーム化の際などにはここら辺のエピソードがメインに据えられて、カーネル、ジャッカル、牙一族あたりは存在ごと削られてしまいがちなのだが、できれば北斗無双にはハードボイルドな立ち振る舞いの中に優しさを覗かせる初期型ケンシロウもしっかり描写してほしいものだと思った。