趣味と罰

オタを世代で大きく分けた場合、蓄積するオタと消費するオタにわかれると言われる。ちょっと話題としては古いがオタキングが泣いたアレ。消費するオタとは即ち萌えオタのことであるわけだが、彼等も多分蓄積はしてるし、それを次の消費に活かしてるよな。その蓄積してるものが外部からはどうでもよいと評価されてるものだから見えにくいだけで。傍目から見てると「あえて地雷を」的な言い訳が多いのが個人的に好きではないのだが、これは萌えオタが最高に萌える作品を望んだところで作品を作るのは他人なわけなので、能動的に萌え世界を楽しむためには自分の思考スタイルをあれこれ弄っていかなければならないということだろう。ドカベン岩鬼が悪球打ちの訓練をつんだようものであり、また悪球打ちも野球の内として楽しむ姿勢か。傍目にどう見えようとこれは正しいことなのかもしれんな。部外者である我がガタガタ言うことではなかろう。
しかし趣味の優劣なんてものがあるとは思わんが、体験し蓄積されるものが尊ばれる傾向は強いよな。まあ、五感を総動員して体験する事の方が得ることのできる情報量が多いしな。情報量が少ないはずの読書とかが良い趣味とされるのは蓄積の方か。本を読めばかしこくなり、それは実益に繋がると。読書が趣味の人はそんな目的で読んじゃいないだろうけど。だいたい実益に繋がるのかが疑わしい。実益に繋ぎたいならそのジャンルに絞った学習をしていた方が効率が良いわけだし。
どの趣味が有益かという話になると趣味なんて全て無駄という話になり、無駄を否定するならば実益ある行為で産み出した金や時間はどこに使われるのが正しいのかという話になってしまうなあ。あと体験し蓄積したところで何になるのかという話。それは結局、話題の焦点を人はどうせ死ぬ的な方向へ向かわせてしまうのだが、まあ死ぬつっても今この瞬間死ぬわけじゃないしな。あ、不老不死の研究が趣味とかならいいのか。いや、それはもう趣味とかじゃないしな。