キャラメルコーンと狂気

小雨の降る中で信号待ちをしていたら、野球帽を被った20代半ばほどの男性が俺の横に並んで立った。左手には赤子を抱えるようにしてキャラメルコーンの袋を持ち、右手はその袋と半開きの口の間でせわしなくキャラメルコーンの運搬作業を繰り返していた。
そして信号を渡り終えて駅につき電車に乗り込む俺のとなりに、偶然にもそのキャラメルコーンガイが座った時、俺はチラリと横目で見た彼の相貌から狂気を読み取った。最近の都会の物騒さを考えると身の危険すら感じた。多くの言葉を交わせる関係ならいざ知らず、我々が他人から色々な情報を読み取ろうとするならば、それは外見を見るしかない。読み取るというか勝手に推測するしかない。推測が容易なパターンもある。例えば君が乗っている電車に出刃包丁を持った男が乗ってきたら、君はできるだけ警戒した方が良いだろう。しかし彼が持っていたのはキャラメルコーンだ。出刃ではない。ならばどうして。俺は彼のどこに狂気を見たのか。
まず小雨の降る中で傘を差してなかったことだが、これは別に傘を持ち合わせてなければそうするしかないので仕方がなかろう。次に最近見かけなくなった野球帽の大人という点についても、これぐらいで狂人よばわりされてはたまったもんじゃない。その球団の大ファンかもしれないしな。大人が路上でスナック菓子というのも行儀が悪いといえばそうだが、やはり精神異常まで疑われる類のものではない。しかしこれらが雨のカーテンの向こうで複合的に行われていたらどうなのか?いや、それでも、もし彼が抱えていたのがポテトチップスの袋だったら俺は恐怖を感じなかったんじゃないかと思う。おそらく俺の狂気認定のボーダーラインを飛び越えた要因はキャラメルコーンだったのではないか。繰り返すが、これがポテトチップスだったら俺は一切恐怖など感じなかった。ではなぜキャラメルコーンだと怖いのか?それはおそらく薄ら甘いところではないかと思う。なぜ薄ら甘いと怖いのか。いや、別に薄ら甘い=怖いというわけではない。言うなれば、狂気のコップになみなみと注がれた雨・野球帽・成人男性・スナック菓子という要素によって口ギリギリで揺らめいていた水面が、キャラメルコーンの小石が投げ込まれるとともに、どうっと溢れ出して俺の心を水浸しにしたということだ。うっすら甘いという曖昧さが雨に滲んだ彼の輪郭を更にぼやけさせたのではないだろうか。これがピリッとしたポテトチップスの塩味だったら彼の立ち位置は明確になり、絶妙なバランスで狂気の淵に立ち止まり続けることに成功したのではないかと思う。
ここまで書いて心配なのは果たしてこの文章は読んでいる皆に伝わっているのかということだ。ひょっとして、これを読んで俺のことを少しおかしい人だと判断している人がいるのではないだろうか。そんな人に対して俺は「だってキャラメルコーンだぜ!?」と大声で抗議したいのだが、それがまた俺の正常を疑わせる原因となり、キャラメルコーンを投げ込んだときの数倍の大きさの狂気の波紋を水面に描かせるのではないかという気がして俺はただ「こんなこと書かなければ良かった」と怯えながら布団を被りドンタコスの塩辛さで散り散りになりそうな精神を必死につなぎとめるしかないのだった。人間が怖い。お菓子が怖い。