定食屋のテーブルトーク

定食屋で朝ごはんを食べていたら奥の方の席が騒がしい。ひょいと覗き込むと、そこには酔っ払った2人の老人が居て、大声で何事かを言い争っているようだ。いい歳した人間がここまで声を荒げなくてはならない理由はなんだろうと思ったら、どうも老人達はどちらの方が喧嘩が強いかで争っているようだった。お互いに剣道・柔道・空手を嗜んでいるらしく、かつては腕っ節に自信があったのかもしれないが、今の彼らは老骨と表現するのがこれほど似合う姿もあるまいというぐらい老いさらばえている。更にしこたま飲んだであろう酒の効果もあいまって、わざわざ殴り合いなどしなくても今にもどちらかが倒れてしまいそうなありさまだった。そんな彼らが「貴様とは絶交だ」「表へ出ろこのやろう」と怒鳴りあっているのは滑稽であり、また物悲しかった。これが漫画なら彼らの一挙手一投足にヨボヨボという書き文字がつき、パンチでも繰り出そうものなら蝿が止まる描写は避けられないといったところだ。こんな歳になってもくだらないプライドに振り回されるとは、男とはなんと憐れな生き物なのか。
人目もはばからずエスカレートし続けるこの喧嘩に腹が立ってきて、ガラリと席を立ち老人達のもとへ歩み寄った俺。しかし普段から徳を積み、仲間内ではアバタールと呼ばれている俺のことであるからして、品なく怒鳴りつけるような真似はせず「表へ出ろと表へ出ろと言っておりますが、外は生憎の雨です。こんな中で掴み合いをしたのでは体を壊してしまいますよ」と笑顔で仲裁に入った。それを聞いた老人達は拍子抜けするほどあっけなく「ごめんなさいね。もう止めますから」と照れ笑いをしながら頭を下げたのだった。
ここで語りたいのは、俺という人間の徳の高さについてではない(再三語る必要もないだろう)。酒に酔ったあの姿こそ彼らの本質であり、数々の経験を経て老成した振る舞いを身につけた彼らの姿は(役割を演ずるという本来の意味での)ロールプレイなのではないかということだ。我々は外見的な老化やそれにともなう体力の低下、そして社会的な立ち位置の変化によってロールを決定されている節があるのではなかろうか。普段は「私」「わし」などという一人称を使っているにもかかわらず老人同士の集まりでは「俺」「僕」と自分を呼ぶ人を見たことがないだろうか?一日15時間ほどインターネットを利用している皆さんに馴染み深い例を挙げるなら、インターネット上で気持ち悪い顔文字を使ってどうでもいい争いごとを繰り返す中年男性を見て戦慄したことはないだろうか。これが肉体という枷から脱した純精神生命体の姿かーと思うとガッカリするのだが、結局は人間ってこんなもんじゃないんスかね。人生って数十年しかないから、数年も会わなきゃ克目して見なきゃならないような話になってるけど、よく考えたら思春期あたりである程度方向性の定まった性格が十年二十年で大幅に変わったりしないよなと思ったり。しかしそこを「変わりましたー!別物でござるー!」という素振りを見せていくのが大人というものでね。そう思うと我々の人生は神々をゲームマスターとした壮大なテーブルトークRPGではないのじゃろか。
脱アイドルを果たしたタレント(あいぼん等)が「今までの私は本当の私じゃなかった」的なことを言うのをよく見るんだが、あれはまあ、当たり前の話だよなー。んなこと言うなら普通の会社員とかでも同じことを言えると思うのよね。つうかね多分みんなが好き勝手に『本当の私』を前面に押し出していく世界ってあんまり幸福じゃないっつうか。全員が勇者の役割を希望するセッションみたいなもんで。